第二の脳研究

助教 唐木 晋一郎 (Assist. Prof. Shin-Ichiro Karaki)
環境生理学研究室

目次

  1. はじめに
  2. 第二の脳 ― 腸管神経系
  3. 現場指揮官としてのENS
  4. ENSの苦悩・・・?
  5. おわりに

1.はじめに

2009年4月号の桑原教授のリレーコラム「“からだの外”について」において、消化管の内側(管腔)は生体にとって「外部環境」であるという考えが紹介されました。さらに消化管は、消化管内腔の環境をモニターするセンサーによって、栄養分を感受して消化吸収に必要な蠕動運動や腸液分泌といった生理応答を惹起する一方、有害物質や有害微生物を感受した場合にはそれらを排除する生体防御の仕組みも備わっていることが示されました。私は1998年に修士課程の大学院生として桑原教授の研究室に所属して以来、そのまま博士課程に進学、学位取得と共に助手として着任、そして現在も助教として桑原教授と共にこの「内なる外」―消化管―の仕組みについて研究を続けています。私は学部生の頃は神経系による生理機能制御の研究をしたいと漠然と思っていましたが、大学院に進学して、腸管には腸管神経系 enteric nervous system(ENS)と呼ばれる神経系が存在すること知り、その虜になりました。ENSはただの末梢神経系ではありません。消化管機能にとっては中枢神経系としての役割を果たしている神経系なのです。その意味は本稿をお読みいただければ分かっていただけると思います。私は、このENSを基軸にした消化管機能制御機構の精妙な仕組みに魅せられ、学生の頃からずっとこの研究を続けています。きっとこれからも続けていくことでしょう。本コラムの読者に私の感じている「研究の魅力」をどれほどお伝えすることが出来るか分かりませんが、少々お付き合い頂けたら幸いです。

2.第二の脳 ― 腸管神経系

一般に神経系は、感覚器(視細胞や味細胞など)から信号を伝える「求心性神経」と、伝えられた情報を処理するために介在する「介在神経」、そして、筋肉や分泌腺といった効果器に信号を伝える「遠心性神経」という3種類の神経によって構成されています。求心性神経と遠心性神経の間に介在神経を介さない経路もありますが、神経同士の伝達には促進性の伝達や抑制性の伝達があるため、それらの介在神経が複数〜多数介在することで、複雑な情報処理を行うことが可能になります。この介在神経が最も大規模に集積しているところが脳です。脳と脊髄を「中枢神経系 central nervous system(CNS)」と呼びますが、ここには多数の求心性神経からの情報が入力され、介在神経によって情報処理が施され、多数の遠心性神経に効果器を働かせる信号が出力されます。通常、感覚器で感受された情報は、CNSである脳あるいは脊髄に、感覚神経(求心性神経)を介して情報伝達され、運動神経や、交感・副交感神経という遠心性神経を介して効果器に反射作用を惹起させるため、このような神経反射弓は必ずCNSを介することになります。しかし、腸管には CNS を介さず、腸管壁の中にある神経だけを介した反射(内反射)が存在することが知られています。しかも、腸管壁内神経叢には、介在神経まで存在しており、この意味では、腸内壁内神経叢はまるで CNS のようです。このため、腸管壁内神経叢によって構成される神経系を、特に腸管神経系 enteric nervous system(ENS)と呼び、腸管機能制御にとってはCNSのような役割を持っていることから、ENS を「第二の脳」とか「小さな脳」と呼ぶことがあるのです。神経細胞の数もCNSである脊髄に匹敵する一億個の神経細胞がENSには存在すると考えられています。ENSのような独自の中枢を持った臓器は腸管以外にはありません。

図 1 大腸の壁内神経叢(模式図)
図 1 大腸の壁内神経叢(模式図)

大腸の腸管壁を切り出して、各層が分かるように示した模式図です。図の下側が管腔、上側が腹腔側になります。神経線維は黒く示しました。この模式図は大腸なので、粘膜に絨毛がありません。

3.現場指揮官としてのENS

ENS は腸管における CNS である、ということを説明しましたが、実際のCNSである脳脊髄神経系とのちがいはいろいろあります。その中で、最も指摘しておきたいのは、CNSが「脳脊髄腔」という生体の内部環境の中で、更に隔離された場所に存在するのに対して、ENSは、腸管という感覚器であり効果器でもある場所に一緒に存在しているということです。ENSは、図1の模式図や、図2の染色写真に示すように、腸管壁の中に、網目状のネットワークを作っています。ENSを構成する神経細胞の細胞体(細胞核のある部分)は、粘膜下組織と呼ばれる結合組織の中と、輪走筋と縦走筋という平滑筋層の間にあります。つまりENSは、CNSのように本社ビルの会議室のような場所にあるのではなく、生体の内部環境の中でも腸管内腔という外部環境と、上皮膜ただ一層で隔てられたまさに現場と隣り合わせの場所にあるのです。上皮膜には、管腔内の環境を感受する感覚細胞と考えられる腸内分泌細胞があり消化管ホルモンを血中に放出すると共に、ENSの感覚神経も刺激されています。効果器としての平滑筋や分泌腺となる腸陰窩もすぐ近くにありますし、腸管平滑筋が動いたり、腸管の内容物によって腸管壁が押し広げられたりすれば、神経線維自体も引っ張られたり縮められたりするでしょう。さらに、ただ一層の上皮膜で腸内細菌叢と対峙しているために、腸管粘膜には腸管免疫系と呼ばれる免疫系も存在しています。消化管粘膜では、プロスタグランジンと呼ばれる生理活性物質が常時産生されているのですが、プロスタグランジは組織に炎症を惹起する物質です。炎症と言うと赤くはれ上がったり、熱が出たり、痛みがあったり、良いイメージはあまりないかもしれませんが、炎症反応は病原微生物や毒素が局所から拡散しないように血管から白血球を集めたり、粘膜からの分泌を亢進することでそれらを体外に流し去ろうとする、生体防御反応です。腸管粘膜では、プロスタグランジンが常に一定レベルで産生されることで、生体防御機構を常時駆動させているものと考えられます。個の働きが無いと消化管の粘膜はすぐに傷害されてしまうことが知られています。抗炎症薬であるインドメタシンなどはこのプロスタグランジンの産生を抑制する薬物ですが、このような薬と胃薬が一緒に処方されるのはそのためです。私は、腸管粘膜のプロスタグランジンは、組織がどのくらい「危険」に曝されているのかの指標として産生されていると考え、その組織内レベルが組織の「警戒レベル alert level」として用いられているのではないか、という考えを提案した総説を発表しています。この様に、消化管粘膜は、外部環境と対峙した最前線であり、粘膜の免疫機能は、ENSの機能にも影響を与え、一体となって消化管の生理・生体防御機構を支えているのです。ENSはいわば、現場の指揮官なのです。

図 2 ラット大腸の壁内神経叢(免疫染色)
図 2 ラット大腸の壁内神経叢(免疫染色)

ラット大腸の凍結薄切標本(10 ?m厚)をPGP9.5という神経のマーカーで免疫染色しました。赤く示されているのが神経線維と神経細胞体です。青く示されているのはDAPIで染色した細胞核です。

4.ENSの苦悩・・・?

ENS は現場指揮官として消化管の生理機能を制御している訳ですが、一方で、CNSからの支配も受けています。ENSは消化管の局所的な生理機能をコントロールしているのですが、消化管は口から肛門まで非常に長い臓器です。腸管の途中で内容物が渋滞したりすると大変なことになります。そこで、腸管全域にわたって消化管の機能を滞りなく制御するためには、遠隔的な制御機構も必要になるでしょう。このための機能の一つが、消化管ホルモンとして血中に生理活性物質を放出し、血流を介して腸管の別の部位にも働き掛けるというものです。それともう一つがCNSと接続する交感神経や副交感神経系、内臓感覚神経を介した制御機構です。ENSとCNSの連絡機構は「脳腸相関」とも呼ばれています。ENSとCNSはうまく協調しながら消化管全体の調整をはかっているモノと考えられます。

このENSとCNSの関係がうまくいっている間はいいのですが、たまに問題を起こすことがあるようです。 消化管は、前述の通り、いわば「現場」で外部環境と接し、腸内細菌叢や様々な毒素などと対峙しているのですが、「脳」はいわば守られた会議室にある司令部で、末梢からの「情報だけ」で状況を判断し、再び末梢にその指令を伝達しています。このため時々、現場と司令部の意思疎通がうまくいかないことがあるようなのです。 過敏性腸症候群 irritable bowel syndrome (IBS)と呼ばれる一連の症候群は、多くの人が経験したことがあるのではないかと思われます。何か悩みを抱えていたり、緊張する仕事などが控えていたりするときに、お腹の調子が悪くなるようなことがありませんか?このような症状が表れてくるのは、「脳」が自身の都合で消化管に対して現場を無視した指令を送り、実際に外部環境と接している消化管で混乱が起こることによって発症しているのかもしれません。ENSとしては、上位機関であるCNSの命令には逆らえませんが、現場には現場の都合というものがあり、ENSその板挟みになって苦悩しているのかもしれません。CNSの意識としての私たちは、現場指揮官を困らせないように、無駄なストレスをため込まないように心がけたいですね。

5.おわりに

私たちのお腹の中の腸管は、第二の脳ともいうべきENSが働いて、私たち(CNS)を煩わせることなく食べた食物を消化し、栄養分を吸収する機能を果たしています。ENSと腸内分泌系、腸管免疫系は、一体となって消化管の生理機能・生体防御機構を制御しているのですが、この詳細な仕組みには実はまだまだ多くの謎が残されています。消化管は全身の制御機構と感覚器・効果器をギュッと濃縮したような器官で、まるで消化管だけで一個の個体のような器官です。「腸」というと、何だかグロテスクな感じですし、壊れやすい厄介者、といったイメージかもしれませんが、ちょっと付き合ってみると、意外とけなげなすごいやつだということが分かってきます。私の研究は、みなさんがお腹の中に持っている、第二の脳の研究なのです。

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