“下の水”からみた環境認識
教授(転出) 岩堀 恵祐 (Prof. Keisuke IWAHORI)大学院環境物質科学専攻の教員がリレー形式で“環境”に関わる話題を自由に提供する『環境物質科学専攻リレーコラム』の第一回目です。 学術的な話題よりも、生き物には不可避で現実的な“下の水”を題材に、環境を考えてみました。 こんな認識も環境の一断面であると理解していただければ幸いです。
はじめに
便所は誰もが必ず、一日に数回はお世話になります。 その重要性にもかかわらず、「かわや(川屋、厠)」 「せっちん(雪隠)」 「はばかり(憚)」 「かんじょ(閑所)」 「ごふじょう(御不浄)」 「Toilet」 「W.C.」 「Rest Room」 「Necessary Room」・・・・等々、古今東西を問わず、便所を表す言葉は沢山あります。 この理由は、古来からの糞尿にかかわる事象や心象の表れだったと推察でき、(1)「不衛生」とみる近代的な糞尿観とそれ以前の考え方(糞尿の呪力)、(2)民族・時代ごとの様々な排泄習俗、(3)一つの「異空間」としての「便所」、(4)糞尿処理の歴史・・・・などが挙げられます。
著者の専門が水処理ですから、このコラムでは、“下の水”からみた古今東西の糞尿に纏わる話題を提供します。 歴史学や民俗学には著者は素人ですが、『歴史の裏に糞尿あり?』の一端を理解いただき、新たな環境認識の一助となれば幸いです。
1 外国における糞尿観と糞尿処理の史的変遷
下水道の起源は古代バビロニアやモヘンジダロ、キリシャの都市国家、古代ローマの遺跡に見られます。その多くは、便所や浴室の排水を家の外に送り出す下水溝でした。
- アテネの泣きどころ:
- 10万人都市だったアテネには下水溝跡は見つかっていない
- → 前431〜404年のスパルタとペロポソネス戦争
- → 戦禍を逃れて市内に人が集まる → 疫病の流行 (スパルタに降参)
- トイレに税金!:
- 財政難の解消に公衆トイレを有料化 (強制的に使用させた)
- → ローマの人口増加と公衆トイレの増設
- → 下水道の不足
- → 疫病の蔓延(1日に1,000人以上の死者も?) (ローマ帝国の衰退)
ローマ帝国の滅亡とともに、下水道の必要性も薄れてきました。 しかし、自然発生的に下水道の原型のようなものが形成されていたようで、ビクトル・ユーゴーの「レ・ミゼラブル」に登場するパリの下水道もこれに類するものと思われます。 近代的な下水道は、1850年代にロンドンから始まり、第二次世界大戦直後のウィーンを舞台にした映画「第三の男」を連想される方もいるはずです。
下水道の目的は、19世紀初めまで、雨水の排除だけでした。 このため、中世ヨーロッパでは窓から汚物を捨てていた時代が続き、汚水貯まりから悪臭が発生するなど、生活環境の悪化が深刻でした。ロンドンでは、1848年から49年のコレラの発生を契機に、雨水に加えて汚水も排除されるようになり、近代下水道が始まりました。 しかし、テムズ川下流の水質汚濁は深刻で、汚水(下水)中の汚濁物を分解・除去(処理)する必要性が叫ばれるようになりました。 石などの接触ろ材に下水を散水して処理する「散水ろ床法」が1893年に開発されましたが、短時間で効率的な処理方法の要望が高まり、現在でも世界中の国々で採用されている「活性汚泥法」が1914年に開発されました。 この年こそ、『下水処理元年』と演者は認識しています。 90年以上も前に開発された技術が今日でも活きている点は、まさに“開放型混合培養系の妙”だと感心しています。
2 日本における糞尿観と糞尿処理の史的変遷
日本では、奈良の平城京から下水溝の跡が発掘されました。 また、古事記には「為大便之溝流下」の記述があり、水洗式の厠(川屋)が神話に登場しています。 しかし、続日本紀の「きたなき佐保川」のように生活排水や汚物の垂れ流しを暗示する記述も見受けられます。 平安時代末期の餓鬼草紙には街頭で排便している庶民が描かれ、宇治拾遺物語には、都の道路に糞尿を廃棄(?)した「くその小路」という記述が見られます。
はばかりながら「トイレと文化」考 文春文庫より
一方、汲み取り便所が登場するのは鎌倉時代の末期で、これ以降、人糞を肥料に利用する習慣が日本人に根付いたと考えられます。 現存する下水道として最も有名なものは、豊臣秀吉が建設した「背割下水(太閤下水)」です。現役の公共下水道として今日も活躍していますので、機会があれば見学されたら如何でしょう(大阪市立南大江小学校内)。
それでは、江戸の町には下水道はあったのでしょうか。 江戸には堀や川が多数存在し、側溝も含め、これらは“下水”と呼ばれていました。 つまり、江戸の下水は、「流し→路地の溝→(小下水→大下水)→川や堀、池、海」へと排除されていたことになります。しかし、最大の汚濁源である糞尿が、近郊農村の肥料(下肥)に利用されていたため、江戸の下水は、実は“処理”する必要はありませんでした。
- 店内の尻で大家は餅をつき(川柳):
- 長屋の大家は「ウンコちゃん」ブローカー?
- → 長屋の糞尿を農民に売る(大家の副収入)
- ⇒ 給金:年間20 両、糞尿の収入:年間30〜40両(米価で換算)
- → 長屋の糞尿を農民に売る(大家の副収入)
- トイレ先進国だった日本?(外国人のみた幕末):
- 初代駐日公使オールコック「江戸市内の街路は・・・・極めて清潔であって、汚物が積み重ねられて通行を妨げるというようなことはない」
- → 西洋では糞尿はただの排泄物
- → 日本では貴重な肥料
- ⇒ 一宿一糞の恩義?
なお、江戸の水環境を考える場合、特筆すべきは上水道です。 低平地の埋立地に築かれた都市が江戸ですので、地下水は期待できません。 そのため、小石川水道や神田上水、玉川上水に代表されるように、当時としては世界に例がない水道網が完備されていました(地下水路網152km の木桶・竹桶)。 また、30 〜 40m 四方に1 ヶ所の水道枡が設けられ、町人の水道料金はタダだったようです。
日本での本格的な下水道事業は、明治33年(1900年)に下水道法が制定されてからです。 東京の三河島汚水処分場で散水ろ床法が1922年に稼働し、1927年には活性汚泥法の実験プラントが同処分場につくられました。 しかし、活性汚泥法の施設建設は1930年の名古屋からで、引き続き大阪、京都、東京などの大都市に導入されました。このように、ロンドンで稼働し始めたばかりの下水処理場をモデルとして、日本では世界でも早い時期に活性汚泥法が導入されていたことがわかります。 昭和30年代以降には、下水道が急速に整備され、平成15年度末には人口普及率が60%を超えました。
現在では、合併処理浄化槽、コミュニティ・プラント、農業集落排水処理施設などとともに、下水道も生活排水処理システムとして位置づけられており、平成15年度末の水洗化率は約87%に達しています。 この数字を知ったら、日本に下水道を紹介した森鴎外(本名:森林太郎)は驚くことでしょう。
最後に、ある書物に次の問答が載せられていました。 このコラムの内容を考えていただく格好の材料になると思います。 皆さんはどのような感想を持たれますか?
(以上)