ワサビの保持栽培に関する研究
助教(退職) 塩澤 竜志 (Assist. Prof. Tatsushi Shiozawa)植物環境研究室
目次
1.はじめに
1−1.ワサビとは?
ワサビ(学名 Wasabia japonica Matsum.)は、アブラナ科(Brassicaseae)に属する植物で、その根はわが国において、すりおろしたものが香辛料として多く用いられています[1]。すりおろしたワサビは独特の辛味成分(アリルイソチオシアネート、以下AITCと略記)を持ち、食味を良くさせるとともに生臭さを消し、味覚と臭覚を刺激して食欲を増進させると言われています。また、防腐と殺菌の効果もあり、特に塩や酢との併用でワサビの防腐効果は倍になると言われています。また、ワサビの生産は静岡県の有東木が発祥の地とも言われています。現在、ワサビは根のみが商品として取引されていて、葉、茎などの地上部は捨てられているのが現状です。皆様の中には「ワサビの葉」というものがどんな形をしているのかご存知ない方もいらっしゃるのでは?
1−2.ワサビに含まれる有用(辛味)成分
刺身や寿司を食べる時に、ワサビの根をすりおろしたものを使用することはよく知られています。(すりおろすのには「サメ皮」が最もよいとされています。)あの鼻にツンとくる感覚はワサビ独特のものといえます。しかし、すりおろしたワサビを空気中に放置しておくとだんだんと「辛さ」が失われていきます。これはどうしてでしょうか? ワサビの「辛さ」の本質は前にも書きましたように AITCです。AITCは揮発性で、時間とともに空気中に飛散し、そのため時間が経つと辛味が失われていくのです。ワサビの根の中では、AITCは配糖体の「シニグリン」として存在しています。配糖体とは、水に不溶性の物質(アグリコン)に糖が結合し、分子全体の水溶性を上げている化合物です。ワサビの根をすりおろすことにより、細胞中の異なった場所に存在しているシニグリンとその分解酵素である「ミロシナーゼ」が混合し、シニグリンが分解されてAITC、糖であるグルコース及び硫酸水素カリウムが生じます。これによって「辛さ」が生じます。(つまり、ワサビの根をボリボリとかじってもほんの少しの辛さしか感じられないということです。)このことより、ワサビは食べる直前にすりおろすのが最良といえます。
しかし、ワサビの葉や茎も若干の辛味を持ち、食用に供せられることはあまり知られていません。葉や茎にも辛味成分であるAITCを主体とする揮発性からし油類やビタミンC等の有用な成分が含まれており、食用としての利用価値がありますが、市場に出回っているのは根だけです。その理由として、ワサビの葉は萎れやすく、また害虫による食害も多いので見た目に美しくなく、商品になりにくいことが挙げられます。そこでワサビの葉が食用になることを皆に知ってもらい、またきれいな葉を一年を通じて食用とするため、ワサビを室内で栽培するシステムを開発する事にしました。それには、「光補償点」を利用した「保持栽培装置」の開発が不可欠です。
2.保持栽培装置の作製
2−1.保持栽培装置とは?
「保持栽培」とは、極めて弱い光を植物に照射することにより、光合成で吸収されるCO2量と呼吸で放出されるCO2量がほぼつりあった状態にすることで、成長を抑えつつ枯死させずに植物を維持する栽培法です。すなわち、ワサビを「生かさず、殺さず」ということでしょうか。このような状態で、2週間ほど栽培することができれば、葉付きワサビを商品として扱うことにおいて成功といえます。この光強度を「光補償点」と呼び、この方法により弱い光で照明電力を抑えることも出来ます。以上のような事を考えつつ、この栽培方法が可能な装置を開発しました。
2−2.保持栽培装置の作製
ワサビが実際にワサビ田で栽培されている環境は、
- 気温(水温)は12〜13℃の涼しい場所である。
- 常に水流があり、非常に水はけの良い場所である。
- 水からの充分な酸素供給がある。
といった所でしょうか。以上のような環境を考慮して、室内でこれを再現できるような保持栽培装置を考え、製作しました。透明なアクリル製の水槽を用い、保冷のため発泡スチロール板を周囲に取り付けました。内部には、穴をあけた塩化ビニル管を設置し、人工的に冷却器を通した水の流れを作り、循環させました。上部には蛍光灯を取り付け、水槽全体を照射できるようにしました。水槽の中には富士砂をいれたバスケットを入れ、その砂にワサビを立てて栽培できるようにしました。
2−3.保持栽培における検討項目
保持栽培を行うにあたり、様々な検討項目があります。それは、
- 保持栽培によってワサビの本質であるところの辛味成分(シニグリン)が損なわれないか。
- 水温の高低によってワサビの辛味成分や鮮度にどのような影響があるか。
などです。このことについて、以下詳しく検討を行いました。
3.ワサビ根茎に含まれる有用成分の測定法の開発
3−1.シニグリン含有量及びミロシナーゼ活性の測定
日葉付きワサビの保持栽培においても、ワサビの根には、本質である「辛さ」が保たれていなければなりません。ワサビの辛味成分の本質はAITCであり、これは先にも述べましたように、ワサビの細胞内の異なる場所に存在する前駆物質のシニグリンと分解酵素ミロシナーゼがすりおろすことにより混ざり合うことによって生じます。したがって、ワサビの辛味を評価するためには、シニグリン、ミロシナーゼ及びAITCを測定すればよいことになります。しかし、AITCは揮発性のため、正確な測定が困難です。そこで測定がより簡便なシニグリンとミロシナーゼを抽出して測定し、AITCの量を推定しました。今回の測定には、先行研究[2]に習い、HPLC(高速液体クロマトグラフィー)を用いました。HPLCは、ある混合物に含まれる成分を一種類づつ正確に同定、定量できる分析機器です。ミロシナーゼ活性は、シニグリンが経時的にミロシナーゼによって分解されることを利用し、正確な時間、ミロシナーゼとシニグリンを反応させた後、ミロシナーゼの活性をなくす作用のあるメタノールを加えて反応を止め、残存しているシニグリンをHPLCを用いて定量しました。また、ワサビの部位(先端、中間、茎近傍)においても、シニグリン含量、ミロシナーゼ活性が違うことが予想されましたので、保持栽培装置によるワサビ栽培に先立ち、各部位についての主要成分の測定を行いました。その結果をグラフで示します。
以上の結果より、シニグリン含量は約 25μmol/g F.W. であり、部位(先端、中間、茎近傍)による差はほとんど観察されませんでした。またミロシナーゼ活性は、測定開始後約7分で全てのシニグリンが分解され、反応速度は 0.25 (1/min) 程度となり、これも部位による差はないものと考えられました。
3−2.異なる水温が保持栽培された葉付きワサビの辛味成分に及ぼす影響
ワサビのひげ根を取り除き、地上部に3〜4枚の葉を残して保持栽培を開始しました(図8)。ワサビは通常、12〜13℃の冷たい水の中で育っています。栽培温度が高くなった場合、ワサビの辛味が損なわれ、商品価値が低くなることが考えられます。しかし、栽培装置において水温をこの温度に保つためには相当の電力が必要となり、経済的にも不利となります。そこでワサビ栽培における水温の最適値を求めるために、水温を8、12、16及び20℃の4段階に設定し、含有成分の経時変化を調べました。
シニグリン含有量は1週間、2週間後では水温による差はほとんど無く、4週間後では16℃以上の水槽では腐敗により測定が困難でした。3週間後のミロシナーゼ活性を見ると、高水温になるにつれて低下する傾向が見られました。すなわち、水温の影響を早期に受けるのはシニグリンではなくミロシナーゼであるということがわかりました。
以上のことより、葉付きワサビは16℃以下の温度で、2週間程度保持可能であることがわかりました。
4.今後の展望
われわれは「葉付きワサビの保持栽培装置」を製作し、それを用いてワサビの保持栽培を行い、2週間程度はミロシナーゼ活性は若干落ちるものの、「辛さ」の本質であるシニグリンを維持でき、また市販可能なみずみずしい葉も維持できると結論づけました。今後、保持栽培装置の可能性を証明するために、照射する光の強度、波長を変えた場合の外観、含有成分の変化を調べ、またワサビの「養生栽培」へ展開すべく、検討を行って行きたいと思っています。
5.文献
- 五訂増補日本食品標準成分表. ,
- ワサビ粉末素材の辛味測定法 静岡県工業技術センター研究報告書, 46, 81-83, 2001. ,
(以上)
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